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かつて、北九州と畿内、遣唐使・朝鮮通信使などの大陸と畿内とを結ぶ海の道として活用され、
今また東洋のエーゲ海などと評されるように風光明媚な海域として知られている。その寄港地では人や物、文化が集散し、海も町も活気があった。
瀬戸内海が最も繁栄していたとされる江戸時代に、
2度往来し詳細な記録をとどめたシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト1796-1866)がいる。
1826年に長崎から江戸への参府旅行にのぞみ、のち1862年にも二度目の参府旅行を行い、これら2度の機会に瀬戸内海を旅した。シーボルトは航行の様子を、スケッチと文章で記録。シーボルトが連れていた画家・登与助、ゲッサイに描かせたそのスケッチは下関・上関・日比・上関海峡・鞆の浦・兵庫・阿伏兎岬・室津・関門海峡・周防灘・屋代島牛ノ首崎など、実に多彩な風景が詳細に描かれている。文章記録は、地名や位置、風景を構成する岩石や植生等の要素が科学的に詳しく書かれ、上陸した場所について町の様子を人の営みも含めて詳細に記載されている。周防灘から塩飽諸島までの「船が向きをかえるたびに魅せられるように美しい島々の眺めがあらわれる」や「この航海を始めて以来、我々はこれまで日本に滞在していた間で最も楽しみの多い日を過ごした」などと瀬戸内沿海景観を評価している。そのほかに、日比の製塩所では、そこで働く労働者を見て、ヨーロッパの工業都市の労働者と比較し、日本の人間的な労働システムを評価したり、室津の賀茂神社参篭所からの瀬戸内海のパノラマ景の美しさも評価している。
固有価値を見出すには、「陸から海を見る」だけではなく、「海から陸・海を見る」という日本人に長きにわたって忘れられてきた瀬戸内海風景の本来の見方に立ち返ってみるのがいいのではないか。
別府温泉郷は古くから湯治客で賑わっていたが、明治末期の当時は交通の便が悪く、入湯者の大半は九州の人に限られていた。その別府に関西からの観光客・湯治客を運ぶために、大阪商船が阪神別府航路を開設した。その後着々と阪神からの観光客は増え、別府は大いに繁栄する。その際に忘れてはならないのが、「油屋熊八」の存在である。熊八は大正14年、富士山の頂上に「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の宣伝柱をたてた。当時関東の人間は熱海へ湯治に行くというのがあたりまえ。そこへ切り込みをかけた熊八のアイデアには驚きを禁じ得ない。もちろん、瀬戸内を走る別府航路のPRも忘れなかった。
以来、別府の街は全国有数の温泉地としてその名を不動のものとし、阪神別府航路はおかげさまで100年を迎える。















